なぜ私と世界は一つといえるのか?|ヨーガ・アーユルヴェーダ・インド哲学

タットヴァボーダ No.55-59

ヨーガやアーユルヴェーダの理論のもととなっているインド哲学「ヴェーダ」の起源は約5000年前にさかのぼります。宇宙の法則、私たちが生きている世界の本質が詰まっています。その一部をわかりやすく初心者用に説明しているものがタットヴァボーダ(Tattva Bodha)です。ヨーガ、アーユルヴェーダのもととなる基本的な考え方を理解するにあたって、とても重要です。このサイトでは、そのタットヴァボーダの内容をサンスクリット語の訳に沿いながら説明しています。グリーンで囲われている部分がサンスクリット語の日本語訳です。ここでは55章から59章にあたる、なぜ私と世界は一つなのか?というを説明しています。タットヴァボーダの全体像について知りたい場合は下記をご覧ください。

 

目次(55章~59章)|なぜ私と世界は一つといえるのか?

 






 

人と神について

これまでのタットヴァボーダの内容とのつながりを復習します。まず、タットヴァボーダのテーマがあり、それを学ぶために必要な資質を説明しました。そしてタットヴァボーダの一番のテーマである、アートマー(自分自身、真我)にはどんな特徴があるのかを15,16章説明しました。17章以降はその特徴を1つずつ説明しています。43章からは、宇宙の構造の話になります。仕組みはどのようになっていて、どのようにできたのかを説明していきます。

No. 55|小宇宙と大宇宙

このように、小宇宙と大宇宙は一つです。

解説

「このように」というのは、54章までの宇宙ができたプロセスの内容を指しています。この世界を構成する五大元素はマーヤーからできていて、マーヤーは真実(ブランマン)に内在しています。つまり、どんな小さいものも世界と切り離すことはできず、世界に内在しています。個人のサトルボディーはサトルレベルの五大元素からできています。そのため、サトルの世界から切り離されることはできません。グロスボディー(肉体)も同じで、個人のグロスボディーは、可視化された五大元素からできています。そのため、可視化された世界と切り離されることができません。これは海の波と同じです。波は海に満たされていて、海がないと存在しません。

また、波はある形と名前をもった海の別名です。しかし、「水」という本質からしてみたら、海も波も同じ一つのものです。私たちの考え、体(=小宇宙)は、宇宙(=大宇宙)と切り離されることはできません。そしてブランマンという真実からみると、私も世界も同じものになります。

ここで注意したいのは、原因と結果の関係がある限り、違いも存在するということです。海は水といえますが、水は海だ、とは言えません。海は水の1つの形で、水が原因とならないと海は存在しません。

 

No. 56|神と人の違い

真実(ブランマン)の反映がグロスボディー(肉体)と同一視されたとき、それを個人(ジーヴァ)と呼びます。この個人は本来、神(イーシュラワ)とは異なります。自分自身(アートマー)が無知によって条件付けされると、個人(ジーヴァ)と呼ばれ、マーヤーによって条件付けされると神(イーシュワラ)と呼ばれます。

解説

真実(ブランマン)は無限です。本来の創造の力、すべての条件付けであるマーヤーを使い、世界を出現させています。そのマーヤーの3つの性質(サットヴァ、ラジャス、タマス)が完全に100%純粋な場合神となり、混ざりものがある場合個人となります。

神(イーシュワラ) 個人(ジーヴァ)
ブランマン+純粋なマーヤー ブランマン+不純なマーヤー
限りがない 限りがある

 

マーヤーの世界

太陽の光は常に同じように地球に降りてきます。しかし、それを反射する力はモノにより異なります。きれいに磨かれた鏡は100%光を反射するとします。一方、汚れた鏡は80%しか光を反射しないかもしれません。中には20%くらい、もしくはほとんど反射しないものもあります。このように、変わらず降りてくる光(ブランマン)が、鏡によって条件づけされている世界が私たちが考える世界です。

イーシュワラ(神、創造者)とジーヴァ(個人)の世界

変わらず降りてくる光(ブランマン)を、100%反射させている鏡に映るのが神です。混ざり物のない鏡(純粋なマーヤー)なので、真実をそのまま映し出しています。80%しか反射できない鏡に映るのが個人です。混ざりもののある鏡(不純なマーヤー)なので無知です。

限りのないイーシュワラ

神は純粋なマーヤーによってブランマンを反映させているので、限りがありません。例えば、100%純粋なラジャスの質を持っているため、この世界の中で限りない行動(太陽が昇って沈む、地球の公転など)を行うことができます。100%純粋なサットヴァの質があるので、無限の知識があります。100%純粋なタマスの質があるので変わらず夜をもたらします。

限りのあるジーヴァ

しかし、個人は不純なマーヤーによってブランマンを反映させているので、限りがあります。ラジャスの質といっても、そこにはサットヴァやタマスも含まれた混ぜ物のあるラジャスです。そのためやる気があっても永遠に行動することはできません。サットヴァも同じようにほかの質が混ざっているので、どんなに頭がいい人でも無限の知識を持つことはできません。タマスにも制限があるので眠り続けることもできません。変わらず悲しみ続けることも、楽しみ続けることもできません。

 

No. 57|条件付けによる違い

それらの違いは、条件付けによるものです。個人(ジーヴァ)と神(イーシュワラ)が本質的に異なるという概念が残っている限り、生と死と繰り返すサムサーラからの救済はありません。そのため、個人(ジーヴァ)と神(イーシュワラ)が本質的に異なるという概念を受け入れるべきではありません。

解説

私たちは幸せを毎日追い求めています。幸せを得るために毎日いろいろな行動をします。しかし、その行動の結果が幸せであろうがそうでなかろうが、また新たな幸せへの欲求が生まれます。これが生と死の永遠のサイクルです。このサイクルは、「探し求めていたのは、私自身だ」ということに気づかない限り終わりません。私自身が、存在・意識・至福の性質を持つアートマーで、それを知ることが解放(悟り、自由)です。

ここまででは、個人と神の違いが明確になりましたが、本質的には同じものだと理解しなければならないと言っています。どのようにして個人と神は同一だと理解すればいいのか、次の章から説明されています。

 

No. 58|You Are That

しかし、エゴを与えられた個人は知識が限られていて、エゴのない神は全てを知っています。偉大な言葉の中に「tat-tvam-asīti(You are That = the God)」とあるように、どうしてこれらの異なる特徴を持った二つが同じものであるといえるのでしょうか?

解説

偉大な言葉とはヴェーダです。ヴェーダの中には、You are That (=あなた自身が神である)という言葉がたくさん出てきます。それはどんな意味なのか、次の章で説明されています。

 

No. 59|神と個人は同じ

もしそのような疑問があるなら、間違っています。tavm(あなた、You)の文字通りの意味は、グロスボディーやサトルボディーと同一視された個人(ジーヴァ)を指します。しかし、暗に含まれた意味は、すべての条件づけから自由で、深い瞑想の状態を識別している純粋な意識(サマーディ)のことを言っています。そして、tat(あれ、that)の文字通りの意味は、神(イーシュワラ)です。しかし、暗に含まれた意味はすべての条件付けから解放された純粋な意識を指しています。このように、意識の観点から見て個人と神の間に本質的な同一があることには、なんの矛盾もありません。

解説

暗に含まれた意味とは

ここではYouとThatの文字通りの意味と暗に含まれた意味が出てきています。例えば、授業中に隣の席の人に「消しゴム持ってる?」と聞くとき、文字通りの意味は隣の人が消しゴムを持っているか持っていないかを確認することです。しかし、暗に含まれた意味は、消しゴムを貸してほしい、ということです。それが本当に重要な意味になります。ここでも同じように、暗に含まれた意味を理解しなければなりません。

本質的に同じということ

神と個人の違いでお話しした、鏡の例に戻ります。私たちは無知によって、鏡に反射されている光を真実だと思いがちです。鏡が大きいか、小さいか、曇っているか、磨かれているかによって見る世界は全く異なってしまいます。その反射された、条件付けされた世界が真実だと思い、私は醜いとか、美しいなどと、自分の体を真実だと思い込んでしまっています。しかし、真実は太陽から絶え間なく降り注いでいる光で、それはどんな鏡にも均等に降り注いでいるのです。鏡という条件付けを外してしまえば同じ光(アートマー)です。

サマーディとは?

サマーディとは悟りの状態のことです。個人は不純なマーヤーの条件付けから逃れることはできません。しかし、サマーディに達している状態では、その条件付けから自由になることができます。マーヤーの条件付けから自由になると、残るものはブランマンしかありません。

この世の中の3つの実体

①個人の実体

それが何かは不確かだけれど、何かがあることが分かっていることを言います。例えば、暗闇にロープが落ちていて、そのロープを蛇だと勘違いしてしまうとします。この場合の「蛇」が個人の実体です。このものの見方は常に主観的です。個人が自分の価値観や経験を重ねて解釈するので、様々に変化します。この状態で物事を見ていると、様々な感情的な問題に影響されます。例えばロープという本当の実体が見えずに蛇と信じてしまっていたら、本当は害がないのに噛まれたらどうしようという恐れが生じてしまいます。

②経験の実体

それが何だかはっきりわかっていることを言います。蛇の例でいうと、「ロープ」が経験の実体です。主観を入れずに、物事をありのままに見ることができています。ポジティブやネガティブといった考えもなく、ただありのままに見ている状態です。

③究極の実体

ロープも蛇も本質をたどっていくとアートマーです。名前や形があるものはミッティヤーで実在するものではありません。全てはアートマーという視点で見ることが究極の実体です。サマーディに達している人は、すべてを究極の実体としてみることができます。

 

続きの章からは、サマーディ(悟り)についてさらに詳しく説明をしていきます。

 

 

次はこれを要チェック

 

 

 

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『VEDANTA BOOK OF DEFINITIONS』 Swami Tejomayananda

 

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