アートマーの3つの性質とは?|ヨーガ・アーユルヴェーダ・インド哲学

タットヴァボーダ No.38-42

ヨーガやアーユルヴェーダの理論のもととなっているインド哲学「ヴェーダ」の起源は約5000年前にさかのぼります。宇宙の法則、私たちが生きている世界の本質が詰まっています。その一部をわかりやすく初心者用に説明しているものがタットヴァボーダ(Tattva Bodha)です。ヨーガ、アーユルヴェーダのもととなる基本的な考え方を理解するにあたって、とても重要です。このサイトでは、そのタットヴァボーダの内容をサンスクリット語の訳に沿いながら説明しています。グリーンで囲われている部分がサンスクリット語の日本語訳です。ここでは38章から42章にあたる、アートマーの3つの性質の部分を説明しています。タットヴァボーダの全体像について知りたい場合は下記をご覧ください。

 

目次(38章~42章)|アートマーの3つの性質

 






 

アートマーの3つの性質

これまでのタットヴァボーダの内容とのつながりを復習します。まず、タットヴァボーダのテーマがあり、それを学ぶために必要な資質を説明しました。そしてタットヴァボーダの一番のテーマである、アートマー(自分自身、真我)にはどんな特徴があるのかを15,16章説明しました。17章以降はその特徴を1つずつ説明しています。ここでは、アートマーの性質である「3つの性質」とは何かを説明します。

No. 38|アートマーの性質

では、アートマーとは何でしょうか?サット(存在)、チット(意識)、アーナンダ(至福)の性質を備えたものです。

解説

これまでアートマーの特徴をずっと解説してきました。アートマーの解説の仕方には2種類あります。今までは、私たちが見ている世界の視点から、体も心もモノもすべてはアートマーではない、だからこれがアートマーだという理論でした。ここでは、アートマー自体は何なのか、という説明をしていきます。

 

No. 39|サット(存在)とは?

サット(存在)とは何でしょうか?過去、現在、未来という3つの時間に、変わらず存在するものです。

解説

時間の概念は、人間が決めたものであり、実際には存在しません。事実、私たちは楽しいときはあっという間に時間が過ぎ、退屈な時はゆっくり感じることがあります。時間が絶対的な真実であれば、そのように変化することはありません。

時間を超越したもの

過去や未来とは、常に現在と一緒に存在します。今を基準にしないと過去、未来などということができません。自分自身(アートマー)はすべての時間を超越したものです。私自身が存在しなかったら、私の過去はないですし、未来もありません。誕生とは、ある特定の体と名前を持って生まれ、死とはそれが破壊されることです。しかし、常に存在する自分自身(アートマー)は、生まれることもなく、死ぬこともなく、始まりもなく、終わりもないものです。

名前、形、質があるもの全ては、誕生、死、変化を経験します。永遠のものは、時間を超越し、不変で、名前が無く、形もなく、属性がありません。別の言い方をすると、時間の概念がなくなると、空間や形もなくなります。この存在こそが本当の自分自身、アートマーです。

isnessの世界

すべてはアートマーのおかげで存在します。アートマーは宇宙の根本です。すべては、私自身の中の、顕在化された世界で体験されます。the book is、the table isというように、すべてのものは顕在化された世界(isness)に存在します。そしてその世界は、私自身(I am)の中で体験されます。

 

No. 40|チット(意識)とは?

チット(意識)とは何でしょうか?絶対的な知識の源です。

解説

知識を源から取り出す

知識には、絶対的な変化のない源があります。私たちは、マインドを通じて世の中の知識を得ます。これは本である、といった知識は、全てマインドが行い、マインドが無ければ感知できません。(マインドが休んでいる深い眠りの状態では、知識を得ることはありません。)絶対的な知識の源の中から、マインドが今の知識に光を当てているような感覚です。本を見ている時「本」という知識にマインドが光を当てます。そのあとノートを見たとき、「ノート」という知識に光が当たります。このように、私たちは常に持っている知識全てのことを考えているのではなく、マインドによって光を当てられた部分の知識のみをその都度取り出しています。

知識は得るのではなく無知を取り除く

本来知識には制限がありませんが、私たちは体という制限のあるなかで生きているので、全てを知っているわけではありません。しかし、私たちは知らないことも知っています。パソコンとは何かを知っていますが、どのようなパーツが組み合わさってできているかを全て知りません。でも、それを知らないことを知っているのです。つまり、知識を得るということは、新しい知識を詰め込むことではありません。本来全て知っているはずなのに無知によって見えなくなってしまっている部分を、そぎ落としていくということになります。

自分自身の知識は源そのもの

それでは、自分自身の知識はどのように光が当てられるのでしょうか?誰にも光は当てられません。自分自身は、知識そのもの、存在そのものです。常に行い手であるので、光を何かに当ててもらうことができません。自分自身そのものが、光輝いています。太陽は、何か別のものに照らされているわけではないのと一緒です。

 

No. 41|アーナンダ(至福)とは?

アーナンダ(至福)とは何でしょうか?絶対的な幸福感の本質です。

解説

ここでいう至福とは、外の世界からもたらされる幸せではなく、自分自身の内側からの幸せのことです。

快適さと至福は違う

私たちが通常いう「幸せ」は、モノや経験という外側の世界(自分自身でないもの)から、「快適さ」がもたらされることを言っています。そこにはいつも条件があるのです。例えば、チョコレートを食べて幸せ、というとき、チョコレートという自分以外のものから、食べたいという欲求が満たされて「快適」という状態です。お金がたくさんあって幸せ、というとき、お金という自分以外のものから、たくさん得るという欲求が満たされているので「快適」な状態です。そういった自分以外のモノやヒトからもたらされる条件付きの幸せは、モノやヒトがなくなったらなくなってしまいます。それがなくなったとき、「快適」ではなくなり、悲しみや苦痛となります。そしてこのタイプの快適さは、常にマインドが知覚します。マインドは常に変化するので、一時は快適でも、また別な時は不快になります。このように常に変化するものは、アートマーではない、つまり本当の至福ではありません。

内側から満たされる至福

至福とは、永遠です。人やモノによってもたらされるものではありません。条件なしに、内側から満たされる、ただ幸せな感覚です。マインドを通じて感知されるものではなく、至福そのものです。5つのレイヤーで説明したように、一般的な幸せには段階がありますが、至福には段階もありません。

無知によって至福が隠れる

本当の自分自身は、至福そのものであるのに、そうして私たちは変わることなく至福を感じることができないのでしょうか?それは自分自身の知識に対する「無知」が原因です。永遠の幸せは、深い眠りのときの体験に似ています。「何も覚えていないけどよく寝れて幸せ」というのは、その時間にマインドや肉体の固定概念から離れて、自分自身を体験しているからです。そのため、私たちは寝ることが好きですし、毎日寝ることを欠かしません。目覚めると、マインドや肉体が働き出し、無知のベールがかかります。

本当の自分自身の知識は、ただ得ただけでは意味がありません。それを本当の意味で理解した人は、目覚めている状態で、心や肉体の固定概念があっても、永遠の幸せを感じることができます。そのような人は、悟りに達した人、解脱者ともいわれます。

 

No.42 |まとめ

このように、人が自分自身が存在、意識、至福の性質であると知りますように。

解説

自分自身(アートマー)は、サット(存在)、チット(意識)、アーナンダ(至福)の性質であることが分かりました。これらは、ローズの花はピンクで、香りがよく、やわらかい、といった属性を表すものではありません。属性は必ず実体とともにあり、実体ということは永遠でないからです。サット・チット・アーナンダは自分自身の一つの側面です。どれも切り離すことはできず、一つであり、永遠です。

 

 

続きの章からは、宇宙の構造についてです。まずはマーヤーの説明をしていきます。

 

 

次はこれを要チェック

 

 

 

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『VEDANTA BOOK OF DEFINITIONS』 Swami Tejomayananda

 

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